●ひなびた日記/03年6月●

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 6月日記
6月15日 
「雨に想う/一周年記念日に」
6月22日 「への字ぐち」
6月17日 「かね子さんの空」 6月23日 「粋と鍵」
6月18日 「即興」 6月25日 「受難のち発見」
6月20日
「the last woman of old Japan」
6月30日 「頭、隠して」



03/06/30「頭、隠して」


 本日の登場人物


  たい



締切りがそろそろ切羽詰まってきたので、分刻みで区切られる時間の密度が濃くなっていく。

今月は神戸に行って、トラトラプリンをお土産に買ってきてくれたばかりの超多忙な相方、父ちゃんは来月、北海道に行くらしい。よいのう。行けるものならば私もついて行きたいぞ。涼しそうだし。
話の流れでとっさに「北の国から」の田中邦衛の物真似をしたのだが、突発的すぎて、わかってもらえなかった。共感を得られない物真似は猛烈に恥ずかしい。



今日はたいちゃんのワクチンに行く。
本当は仕事が忙しく、そんな場合じゃないのだが、明日からまた梅雨空に戻るというので、強行する。自転車はとにかくお天気に弱い。この時期の病院通いは、空を睨みながら、さささっと済ませる。

キャリーを取り出しただけで、とたんにビルマ君が徹底抗戦の構えを見せてシャーをする。ふふふ。今日は君ではないのだよ、残念でした。たいちゃんを素早くキャリーへ。楽なんだな、この子は。いつもいつも助けられている。キャリーの中でちょっと緊張気味なので、早く解放してあげるためにも急いで家を出る。

病院に向かう途中で、たいちゃんがとても可愛い声で呼ぶ。思わず前カゴに乗っけたキャリーにおでこがつくほど覗き込んで返事をする。う〜かわいい。
猫たちが鳴くのはいつも病院へ着くまで。帰りはおとなしく揺られている。皆、ちゃんとわかっているのだ。

病院では、先生の腕の間に一生懸命、頭を突っ込んで隠れたつもりなのだから、「うふふ」「わはは」と笑われながら、丸見えのお尻にあっという間にワクチンが終了、健康診断も健康優良児かわらずで、やれやれ。

帰宅して、こっそりご褒美用シ○バのドライフードをあげる。すぐに皆が「ぼくも」「私も」と集まってくる。順番にあげながら、たいちゃんにはちょっぴり多めにあげてしまう私であった。

さて、これでワクチンラッシュはひとまず終了。一匹ずつならほんとに楽。それぞれの通院記録に体重測定のグラフをつけるのが今いちばんの楽しみでもある。ちなみに、今日のたいちゃんは5.3キロ。



03/06/25「受難のち発見」


 本日の登場人物


  あおぞら  クルリ 



朝方から雨が激しく降っていたので、散歩に出る時間がいつもより遅くなった。
てきめんに小学生の群れにぶつかる。

何が苦手といって、あおぞらは子どもが大の苦手である。昔、何かよほどひどい目に遭ったのか、とにかく頑として動かなくなる。耳を倒し、しっぽを足の間に隠して、踵を返して逃げようとする。
しかし、ものの本によれば、あくまで主導権を握るのはこちら側でなければならないのだという。犬は猫とは違って、たえずボスは誰かを示し、ボスの指示に従っていれば安心なのだと教え込まねばならないのだそうだ。このへんを曖昧にしてしまうと、信頼関係に響くらしい。

だから、そういう時は必ず、小学生のいる道は避けても、散歩コースを決めるのは常にこちらだということを示す。行けそうだと思った時は、私の体を挟んで子どもたちと反対側を歩かせ、うまくやり過ごせた時は、しっかり褒める。

今日もお尻を落として、いやいやをするあおぞらを「大丈夫だから。怖くないよ。母ちゃんがついてる。大丈夫」と頭を撫でつつ、こちらもしゃがみこんで説得するが、言ってるそばから、小学生が傘を振り回し、奇声を発して駆け抜けるので、意味がない。

しかも今日にかぎって、曲がる道曲がる道、なぜか必ず子供達がいる。これには参った。ほうほうのていで、小学生包囲網を抜け出したときには、これまでの散歩コースで通ったことのない初めての道に出ていた。
そこで私は発見した。

立派な門構えにふさわしく、そのお屋敷には堂々たる表札が掛かっていた。
それは墨痕鮮やかに「○○(名字は一応伏せますが)天」とあり、
「天」の上には「たかし」と振りがな。
へえええ。天、と書いて「たかし」かあ。うわあ、かーっこいー!
「いいぞ、あるじ!」反射的にエールを送る。何だかすごく感動した。

人の名前に使える漢字は限られているが、読みは驚くほど自由らしい。
以前友達と話していて、「明日と書いて、トモロウ」などと冗談で言っていたのに、全くOKらしいのだ。まあ、今はとっくに、アクロバチックな読み方をさせる、きらきらしい名前が多いみたいであるが。

発見のある散歩は楽しい。散歩が好きなあおぞらのおかげで、私の楽しみがまた増えた。



ずっと見に行き損ねていた映画「WATARIDORI」が終わる前に、強行突破で無理やり見に行く。最近は、気づけばとんでもなく日付が進んでいるので、見逃した映画が山ほどある。とにかく時間はひねり出さなければ、どこからも涌いてこない。

雄大な映像を大画面で見られて大正解。圧巻だった。
途中で、何の鳥だか、クルリ君そっくりの声で鳴く鳥がいて、急に家に帰りたくなってしまった。
わが家の男の子たちは、クルリ君をはじめとして、たいちゃんもトモロウも公平も、みんな高くて可愛らしい声で鳴く。ほんとに笑っちゃうぐらい可愛いのだ。
病院などで「あらー」と驚かれると、ちょっと嬉しい私であった。



03/06/23「粋と鍵」


 本日の登場人物


  あおぞら 



腕が抜けるほど重たいお持ち帰り用の仕事を抱え、彦いち師匠の独演会に走る。
下北沢にて。
幕あいに「○○さんはいらっしゃいませんか」と落語会でよく会う知人の名前がフルネームで呼ばれた。

私のような若輩者より、はるかに年配でいらっしゃるその人は、私が普通に入社して出会ったならば、口をきくこともかなわないような偉い方だという噂だが、東急のセミナーで机を並べた縁もあり、お会いすれば気さくにお話しさせていただいている。
大変落語に通じて博識で、非常にダンディーな方でもあり、かつては船に乗っていらっしゃったこともあると伺った。

その彼が呼び出しを受けた内容というのが、「奥様が鍵がなくて、大変困っていらっしゃいます」というものだったから、場内は温かい爆笑に涌いた。「鍵を拝借して、会場の外でお待ちの奥様にお渡しいたします」という。

恐縮しながら現れた知人は、鍵とともに財布から紙幣を出して係の人に渡した。「せっかくだから、これで中に入っていらっしゃい」というのだ。
そして振り返り「皆さん、お騒がせしてすみません」と軽く手をあげるではないか。スマートで粋なとっさの振る舞いに、私はシビれた。
落語通はこうでなくちゃ!

今日の古典「お見立て」の一席もとてもよかった。圧倒的面白さを誇る漫談の後、古典と新作を一作ずつの構成なのだが、毎回意欲的な試みを感じる。
私もやけに気合いが入って帰途に就くのであった。



あおぞらにブラシをかけていたら、とても気持ちがよかったらしく、
鼻を「ブー」と鳴らした。
「それはちょっと(鳴き方が)違うだろう」と可笑しくなったが、
笑ったら悪いと思い、我慢すると横隔膜と肩が連動して震えてしまった。

以前、虐待を受けていたというこの子は、来た最初、
棒状のもの(ブラシ)を手にして近づくだけでガタガタ震え、
おしっこをちびりながら逃げ回っていたのだ。
あれからずいぶん時が経ったのだなあ、とつくづく思う。



03/06/22「への字ぐち」


 本日の登場人物


  トモロウ 



昨晩は久々に乗り換えの終電に間に合わず、二駅分歩く。三年履き倒した革靴が、軟弱にも一昨日とうとう壊れたおかげでスニーカー出勤だったので、がっしゅがっしゅ歩けて気分がいい。
とはいうものの、その日はすでにさんざん歩いた後だったから、一夜明けてさすがに今日は疲れている。やることは色々あるのだが、例によって眼精疲労の頭痛と吐き気が出てしまって動けない。だから、ここぞとばかり猫達とごろごろした。至福。



いま使っている地下鉄のカードは、トモロウによく似た猫が描かれている。
               影絵作家・藤城清治の「銀座と平和の鳥」。
 
 目と耳が素晴らしく大きく、尻尾の長い
 キジトラ猫が、横笛を吹く少年の赤い帽子に
 よじのぼってシルクハットを天に掲げ、
 そこから数羽の鳥が飛び立っている。
 
 特に、大きめのへの字口がトモロウそっくりで、
 つい何枚も買ってしまった。
 
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トモ への字。似てる?



03/06/20「the last woman of old Japan」


 本日の登場人物


  喬太郎 



たまたま仕事の空き時間があったので、久々に近くの大学で公開講座を受ける。テーマは「樋口一葉」。無料の講義は全四回で、今日がその第一回目だった。最近の一葉人気もあって、10分前に着いた時には大教室は既にいっぱいだった。

ジジババ達と机を並べるのは面白い。あちらこちらで舟をこぐ頭が揺れている。かと思えば、目薬をさしながら舐めるようにノートをとる人、夢みるような表情で小首をかしげたまま、一心不乱に頷いている人、大判ストールを羽織ったり直したり、また脱いで畳んだり忙しい人、質問の時間に、専門家に向かっていきなりウンチクを語り出す強者もいる。

いい雰囲気だなあ。向学心パワー炸裂。なんてったって、先生が教壇に立ち、ちょっとはじめの挨拶をしただけで、盛大な拍手ですよ。熱狂、といってもいいくらいの。

先生はすっかり舞い上がってしまって「暮」を「春」と読んだり、「元々(もともと)」を「がんがん」と読んだり、とても微笑ましかった。最後に「ご清聴ありがとう、ありがとう」と何度もくり返したりして、普段の大学でのご苦労が忍ばれるのであった。

講義そのものも、とても愉しんだ。萩の舎時代と、処女作『闇櫻』について。鮮やかなラストは一服の清涼剤だ。これは恋煩いでほんとに死んでしまう女の子の話である。
女の子が新聞を読んだだけで不良と言われた時代。恋い焦がれて命まで潰えてしまうとは、一体これはどこの国の話であろうかと思う。
しかしおそらく、かつては十分に共感を得られる、あるいは実際にあり得た話なのであろう。

もし今、彼らに会って話すことができるとして、これほどの社会的背景の違いを抱えながら、どれだけ話が通じるであろうか。空想の中では十分に可能な試みであり、大変興味深いのではないかと思う。
話す言葉はほとんど変わらないのだから、あとは想像力の脚力如何によるのであろう。一体どれだけの扉を蹴破れば、彼らのリアルな暮らしや感情に触れられるのか。普遍の部分を核にして、時を遡る。



仕事を早めに切り上げて、先日合間をぬって買っておいた、小さめの衣装ケースに水中ポンプを設置した。喬太郎が大きくなったので、どうもこれまでの水槽が狭苦しく感じ、彼自身もストレスを感じているのでは、と思われたので、新しい家を作ってみたのだ。さっそく喬太郎を移し替えた。すると…。










喬太郎あとずさる

下がる、下がる、どこまでも下がる。
こつんと壁にぶつかると、そのまま蹴って、すいーっ。
しばらくぷかーん、と浮いている。   
またもや、下がって下がって下がると、すいーっ、ぷかーん…
じっとして、じっとして、またまた、すいーっ、ぷかーん…
 
 


 




ごきげん喬太郎、回転中


ややあって、突然…おお、回る回る…回転を始めたぞ。
それでもって、ぷかー……ん…。
まあ、はしゃぐこと、はしゃぐこと。

よかった。しみじみ嬉しく観察。思い立って写真を撮る。



03/06/18「即興」


 本日の登場人物


  喬太郎 



地下鉄に乗ったら、連結器の部分が、いきなり阿部薫のインプロヴィゼーションのような音を出したので、ひどく驚いた。
その驚きが、だんだん嬉しいものへと変わっていったので、これを誰かと共有したい、と強く思ったが、見渡したところ、比較的混んだ車内でそのことに気づいた人は、誰もいないようだった。



蒸し暑さのせいか、喬太郎の食欲が少し落ちたように感じたので、従来の餌に飽きたかと、別のものを買ってみたのだが、見事に気に入らなかったらしく、ほとんど口をつけない。
食べてもらうために生産されたものが、むなしく水槽の底に沈んでいく様は物哀しい。しかもそれは、猫達に中身を改められたあげく床にばらまかれ、そのうえ猛烈に水を臭くするので、私はしじゅう水替えをするはめになり、何だかもっと物哀しい。



03/06/17「かね子さんの空」


 本日の登場人物


  ユキ  クルリ  たい  ビルマ



かね子さんというのは、いま私がその文章にシビれて、ほとんど熱烈に愛読している方である。
彼女はとてもユニークなメールマガジンを発行し、自らの
サイトで日記を公開している。彼女の人となりについては何も知らない。彼女は書く。とにかく書く。ひたすら書く。私が知っているのは、かね子さんはそういう人だ、ということだけである。

彼女の文章は実に的確でシャープであると思う。明確な意志を持った人が、おそらく10年以上の時間をかけ、本気で鍛練しつづけてきたことだけによって得られる文体である。

彼女はメールマガジンで、かつて自分がつけていた膨大な日記を抜粋しながら、その背景となった事実関係をもとに、当時の自分の葛藤や、それがどういう形で日記に表れているのか克明に分析していく。これがどれほど果敢な試みか、理解できる人はそう多くはないのではないか。なるほど、そういうやり方があったのか、と新鮮な驚きに打たれた。こうした膨大なエネルギーを注ぎ込み、鍛え上げられたあげくに手にした文体だったのだ、あれは。納得。

とはいえ、これは相当きつい。自分をとことん突き放し徹底的に外から眺める作業だからだ。しかし、こうした幽体離脱といってもよいような第三の目の修得は、書き手となるならば不可欠なのであろう。ニール・サイモンも作家の資質という文脈で、やはりこうした経験を述べていたが、今の書き手に、一体どれだけそれを意識した人がいるだろうか。

そのかね子さんから、メールを頂く。直前に、かね子さんの写真を使わせていただくために、お願いのメールを出していた、その返信だった。欣喜雀躍。久しぶりに小躍りが出た。

迷った末に、やっぱりアースケとべっかむのページを作ろうと決めた。作っている途中で、ふと空の写真を飾りたいと思った。フリー素材のサイトをいくつか見てまわったが、なかなか思う写真がない。そういえば、かね子さんのサイトにも彼女が撮った写真があったな、と思い出した。すぐ見に行ってみると、これがものすごくよかったのだ。これだよ!と思った。

時々空は凄い顔をしている。それを見て、はっとなる。鳥肌がたつほど美しく、寄らば切るぞという凄みさえあって、その迫力に鷲掴みされる。
そんな空は、水滴をはじく金属のようなきーー…んという音がする、と書いた人は劇作家の北村想さんだったが、その時も、そうだそうだ私も聞いた、あの音はその通りだったと、強く思ったものだ。
この写真を見た時も、そうだそうだ、これだこれだこれなんだ!という心の声が、半鐘のようにガンガン鳴った。

かね子さんは書いている。「三次元を二次元に落とす作業は言葉を使うよりも難しくて、でも撮るうちに自分の眼が切り取る風景の感触がわかってきた」
こういう正確な言葉をきちんと使える人が、とても好きだ。

私の好きな一枚(photo/かね子さん)
(↑ クリックすると大きくなります)



これはちょっと書いておかねばならない。
頑固者の先住猫ユキ10才が、ついに他の子を受け入れるようになったのだ。

このところユキは、クルリ、トモロウの毛づくろいに精を出している。少々乱暴すぎて迷惑がられることもあるのだが、また男の子たちが遊びと勘違いしてプロレスを仕掛けては、ユキをぷりぷり怒らせることもあるのだが、とにかくまめにせっせと世話を焼いている。

思えば、はや一年が経っていた。功労者はもちろん、クルリ君だろう。

たいとビルマがわが家に来ることになった時、ボランティアさんに尋ねられた。
「先住の猫ちゃんは神経質なほうですか?」
私は一瞬、言葉に詰まった。そんなこと考えてみたこともなかった。甘えん坊で賢い子、という認識しかなかった。親バカ炸裂で今思えば恥ずかしい。
「何才くらいですか」「えっと、9才です」「じゃあ…ちょっと難しいでしょうね」「仲良くなるのは難しいですか」「まあ無理でしょう」

ベテランの方の答えは明快だった。それでも、まだオスとメスならうまくいく可能性も少しはあるだろう、ということで、たいとビルマはやってきた。

たいに追いかけられて何度か名誉の負傷をしたせいもあって、とにかくユキは頑として受け入れることを拒んだ。天晴れなほどの頑固さだった。
こうしたストレスで、若くはないユキの寿命を縮めるのだけは嫌だったので、部屋を分けた。

他の子の姿が見えると、とたんにユキの機嫌は悪くなったが、間もなく距離をとりながらそれぞれのテリトリーで生活するようになり、生来のんきな私は、なるようになるだろうと思って、気長に見守ることにした。優柔不断な話だが、どの子もほんとにかわいくて手放す気はさらさらなかったから、このまま別居が続いても、猫たちが別にいいなら、それでいーや、という感じだった。

まあしかし、仲良くなるものである。猫はきっと人間よりも寛大で進化が早い。そりゃもちろん、まだベタベタというわけではないけれど、一向に構わない。
別に仲良し家族でなくたっていいのだ。ただ、一緒にいることでストレスを溜めるのだけは避けたかったから、そこをクリアすればもう、後はどんどん勝手にやってくれるだろう。たのもしい。そして私は、またもや楽をさせてもらっている、と思う。

それでも一年かけたこのすごい進歩には、やっぱり胸がいっぱいになる。
なるようになるだろうと思ってはいたものの、
諦めていなかったといえば嘘になる。正直ほっとしている。
「長い目」とひと言でいうものの、ぎっしり中身の詰まった月日の重みを
改めて振り返ってみる。
くつくつと込み上げるうれしさに、出鱈目な歌も飛び出す。
後はユキに精一杯長生きしてほしい。少しでも、一瞬でも長く。



03/06/15「雨に想う/一周年記念日に


 本日の登場人物


  ルノ  クルリ  たい  ビルマ



以前、立原道造記念館で、おびただしい彼の書簡を見たことがある。時に水彩画やスケッチを交えた膨大な手紙の数々に圧倒された。書かずにはいられない人間のエネルギーを垣間見る思いだった。

そこでいちばん印象的だったのが、草色の色鉛筆で書かれた手紙だった。草色の色鉛筆は、24歳で夭折した詩人のお気に入りの筆記用具だったらしい。
これは鉛筆だったが、友人に宛てて書かれたもののなかに「のりこえのりこえして生はいつも壁のやうな崖に出てしまふ」という鮮烈な一節があった。

立原道造記念館は、私のとっておきの隠れ家のひとつだ。小ぢんまりとした清潔な空間は、いつ行ってもほっとする。そこに展示されている、建築家でもあった彼が設計した「ヒアシンス・ハウス」の模型を、私はとても愛している。



雨が降ったり止んだりの鉛色の空が、今日のように殊さら憂鬱に重たく感じる日には、いなくなった猫のことを思いだす。
トップページに掲げた写真の左側、名前は「ちゃあちゃん」という。
彼が消えたのは遠い昔、ちょうどこんな季節だった。

そんなことをいつかぽつりと話しかけたところ、皆まで聞かず、
ぴしゃりと遮られた。「それは縁がなかったから」
思わず相手の顔を、穴があくほど見つめてしまった。
その人も猫を飼っているからこそ、よけいに深く言葉は失われる。
私はただぼんやり、お説拝聴するしかなかった。

何も知らずに喋りまくれる能天気さと傲慢さ。
あの時、私のあげた叫び声は悲鳴に近く、
それに応えて、ちゃあちゃんが確かに一度ちらりと振り向いたことも、
再び猛ダッシュで走り去った彼の後ろ姿を思いだすたび、
今も胸がつぶれそうになることも、
足を棒にして捜しまわり、夜中に何度も跳ね起きて声を殺して泣いたことさえ、彼女が思い至ることは、永遠にないのだろう。

野良猫母さんに託されて、以来かけがえのない時間を共に過ごした彼と、
縁のなかったわけがない。

金井美恵子さんが「猫と猫好きの関係は、ロシア文学とロシア文学評論家の関係に似ている」というようなことを書いていて、うまいこというなあ、と妙に感心した覚えがあるのだが、その言葉がこのところ、やけに身に滲みる。



今日はルノとクルリが初めてわが家にやって来た一周年記念日。
元の飼い主Mさんは、一年前この子たちの命を守るため、
文字どおり奔走されていた。それがこの子たちとの出会いを生んだ。
日に日に悪化する環境のなかで、彼女がどれほど必死に猫たちを守ってこられたか、この子たちを見ているとよくわかる。

今も横で、ちょっと巨大化したクルリ君がお得意の「んふーっ」をやってくれた。ぴちゃぴちゃと空気をなめる。どんな夢を見ているのか。

一年前の日記を読み返すと、つい昨日のことのように思えるが、
同時に、まだたった一年なのか、とびっくりする。
もう昔から、ずっと一緒にいるような気がしている。

救い出されるまでケージに閉じ込められ続けてきた、
特殊な生い立ちを持つ たいとビルマが、こんなにも優しい子に育ったのは、
きっとルノとクルリが、彼らによい影響を与えてくれたからだと思う。
猫らしさや猫社会のルールなど、いろんなことを教わったにちがいない。
これからも、この子たちと共に暮らせることが、とても嬉しい。
皆が健康でいてさえくれれば、それ以上は何も望まない。



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